ライブドア・楽天・ソフトバンク・エイベックスなど、ここ最近、急成長してきた企業はベンチャー企業という枠組みで説明されます。一般的にベンチャーとはベンチャー企業とは、「新しい分野にチャレンジ精神を持って果敢にも挑み、成功への道のりの戦略を有している企業」と言えます。この戦略は成功の結果として、「夢やロマン」という言葉に置き換わられます。特にその戦略においては、単純に自社製品を広めるというだけなく、新しい市場を作り出し、人間の社会生活を向上させるという崇高な目標に向けて練られるのが常です。ベンチャー企業は英語で「スモールビジネス」と訳されます。このスモールは小さいという意味ですが、その裏に「独立している」という意味が隠されてます。大企業や国、自治体から支えられているのではなく、独立した事業体であることが必要なのです。「独創性」と「独立性」がベンチャー企業の柱であり、結果として「チャレンジ(挑戦)」と事業に対する「リスク(危険)」が伴うことになるのです。
こうしたベンチャー企業は就職戦線でも人気があるようです。しかし、ベンチャー企業の特性を知らなければ働いてみても結果的に退職をしてしまう可能性があります。それはベンチャー企業は個性の塊だからです。その個性に染まることが出来ないと、なかなか会社でやっていくことは困難と言えます。また、ベンチャー系企業は概して未整備の部分がたくさんあります。すなわち仕組みを自らが作り上げるんだという気概がないと、このベンチャーでは務まらないのです。また受身では何にも出来るようになりません。大企業ならば研修制度も充実し、新入社員が半年間何にも出来なくても同じ部署の人達に迷惑がかからないように、人員配置も教育システムも完成されています。しかし、ベンチャーは研修もなければ、へたをするとほったらかしといいう状態も少なくありません。自ら果敢に何事にも取り組んでいけるような人がベンチャーには求められているのです。 こうした、ベンチャー企業に自分はあってるのか!あっていないのかを見極める力が必要です。誰も歩んだことの内道を突き進むベンチャーのやりがいは人事制度の未整備に対する不安を払拭する力を持ち合わせており、真っ白な雪道に最初に足を踏み入れる感動が待っているでしょ。しかし、これは誰もが踏める第一歩とは限りませんので、見極めが重要なのです。 (ベンチャー企業で働くプラス面) ①若手が多く活気がある ②実力主義で若手にチャンスや権限を与える ③社長がトップダウンでやっているので方針がわかりやすい ④給与が高額なケースが多いし賞与もびっくりするぐらい出る場合がある ⑤とてつもない可能性と成功が待っている場合がある ⑥細かい規定が少なく動きやすい ⑦子会社の社長や役員就任などチャンスは多い (ベンチャー企業で働くマイナス面) ①上司が少なく仕事を指示する人が少ないのでわからないことが多い ②勤務時間や曜日が定まっていないケースが多く常に忙しい ③結果が出ないと給与が変動しやすいし、社長の一存で賞与廃止はある ④経営は不安定で社長が死んだり倒れたら終わりという場合がある ⑤資本力がないと乗っ取りや吸収され、一気に人員整理がありえる ⑥社長のトップダウンに振り回されたりすることがある #
by syukatsu-ouen
| 2004-12-18 16:43
| 人事部の本音
就職内定率3年ぶり5割超す=来春高卒者、10月末現在-文科省
来春卒業予定の高校3年生の10月末時点の就職内定率が、前年同期より5ポイント高い53.1%となり、3年ぶりに50%を上回ったことが17日、文部科学省の調査で分かった。同省児童生徒課は「改善傾向はあるが、相変わらず厳しい状況」としている。 調査は全国の国公私立の高校生約121万1000人を対象に実施した。就職希望者約22万6000人のうち、内定者は約12万人。就職の決まっていない生徒は約10万6000人に上る。 (時事通信) - 12月17日18時2分更新 就職内定率の改善は喜ばしいこと。しかし、先行きの見えない経済状況の中で雇用不安は消してなくなってはいない。高卒の労働力は男子の場合は運輸・製造業などのブルーカラー系雇用が中心。長引く不況で大手のリストラも一段落したために、給与条件が安い若年層の雇用に踏み切った可能性が高い。女子の雇用先も食品や製造などが多く、職種的にも事務系も多い。こうした面で男子よりも雇用環境が厳しい。 ただ、根本問題として内定率はちょっとしたマジックがある。国民生活白書から下記の文を引用してみた。 (参考) コラム 就職内定率ってなんだろう 学生の就職状況を把握する際の主要な指標として「就職内定率(以下内定率)」が一般的に使用されている。「内定率」とは「就職希望者のうち、企業から内定を得た者(内定者)の比率」である。この数字が高ければ高いほど、就職を希望する学生のうち、より多くの学生が、勤め先を見つけることができたということを意味しており、望ましいと考えられる。 厚生労働省によると、2002年3月の高校卒業者の内定率は89.7%(2002年3月末現在)と、就職難といわれながらも比較的良い数字にみえるが、この数字は、就職を希望した高校生のうちの約9割が就職できたということなのだろうか。 ここで「内定率」の算出方法について詳しくみてみよう。「内定率」を算出する際の分母に該当する「就職希望者数」とは、「内定者数」と「就職を希望する未内定者数」の和である。この「就職を希望する未内定者数」には、途中で就職をあきらめ、就職活動をやめてしまった学生は含まれない。例えば10月時点では、就職を希望していた高校生が、就職先が決まらず、12月には大学への進学希望に変更した場合を考えてみよう。この学生は10月の就職内定率の調査時には、分母の未内定者数に含まれるものの、12月の就職内定率の調査時には、分母から除かれることになる。つまり、卒業時点の「内定率」とは、卒業時点まで継続して就職を希望する学生のうちの内定者の割合であり、途中で就職をあきらめてしまった学生は「内定率」の数字では把握できない(注7)。 現在のように就職環境が厳しい状況でも、「内定率」が大幅に低下していない背景には、内定が得られず、途中で就職をあきらめたり、進路変更する人が増えていることが1つの要因であると考えられる。例えば、景気がよかった1991年度には、90年7月末時点で就職したいと思っていた高校生のうち、就職をあきらめた人はわずかであった。しかし2001年度には、2000年7月末に就職したいと思っていた高校生のうち、少なくとも4人に1人は就職をあきらめたり、進路を変更している。 驚くべき実態だ。内閣府がまとめた国民生活白書にこうした実態が書かれている。すなわち、内定率は(就職希望者=内定者数/内定未決定者)であって、この中には就職そのものをあきらめた人間は含まれない。高校3年生で就職しようか進学しようかで悩んだときに、アルバイトでショップの店員になった子やカラオケ店で働く子は含まれないのだ。高校ガイドに高校別の進路状況をまとめてあるが、就職者が多い高校では20~30%の割合で進路区分「その他」という子供たちがいるが、これがすなわちフリーター人口といえる。また、就職はあきらめてどうしたらいいかわからない子もその他に分類され内定率には影響を与えない。 こうした点から見ると、就職内定率の実際は30%前後がいいところ。まあ、希望している人だけで見れば増加したことは褒められるが実際は厳しいのだ。大学生もこの傾向が増えてきており、就職できないなら専門学校へとか、資格を取るために勉強する人などは内定率に含まれて居ない。そう考えると大卒で内定率の実態はせいぜい50%~60%がいいところかもしれない。 #
by syukatsu-ouen
| 2004-12-18 15:11
| 人事部の本音
日本には教育基本法という日本のめざすべき教育の基本となる考え方が示されている。特に教育基本法には憲法にしか本来ない前文が一法律ながら付けられています。新しい教育理念を宣明する教育宣言であり、その他の教育法令の根拠法となるべき性格をもつこと、また日本国憲法と関連して教育上の基本原則を明示し、憲法の精神を徹底するとともに、教育本来の目的の達成を期して制定されたことなど、極めて重要な法律であるという認識から、本法制定の由来と目的を明らかにし、法の基調をなしている主義と理想とを宣言するために、特に前文がおかれたものです。
このことからも教育基本法がもつ特殊性と前文のもつ崇高性がわかりますよね。教育を受ける権利は基本的人権の一つで何人からも制限を受けるものではありません。だからこそ教育基本法には日本の国が歩むべき教育の大目標があるのです。ですから教育基本法改正の議論では学者の多くが反対ないしは慎重な議論を求めているわけですよ。 偏った癒着により教育の目的が変更されたり、教育カリキュラムが安易に変更されることはあってはならないことなのです。こうした産業化との癒着構造を考えると、受験競争についても経済界が望んだ結果じゃなかったのか?と考えられるのです。よい部品と悪い部品の選別、出来る子供と出来ない子供。経営者や技術者は高い教養と知識が必要だが労働者は高い知性は必要ない。むしろ、従順性と体力が重要。全てに高度な教育を与える必要はないと思うのが経済界の一般的考え方です。およそ教育的概念からは程遠いものです。 つねに歴史的観点から見ると文部省は教育のあるべき姿をもっともらしい説明をしていながらぶれてきているのです。私はゆとり教育という考え方は否定するわけではないし、円周率をおよそ3で教えても3,14で教えてもかまわないと思います。しかし、学び意欲がある子供には平等の教育の機会を与えるべきじゃないのかと思うのです。現に私学教育では円周率は従来どおり3.14で教えています。公教育でも3.14で教えている先生はいるでしょう。でもおよそ3が認められれば、こうした教え方のみで終えてしまう子供たちもいるのです。教育のカリキュラムの選択権は子供たちにはありません。私学であれば学校を選択する機会があるので、ある意味問題はないが公教育には学校選択制度はまだまだ一部の首都圏地域に限定した考え方です。教育内容を教師や学校の裁量で厳選できる。片方では聞こえの良い議論です。しかし、それに伴う教師の技量のブラッシュアップが必要なはずです。子供たちの学力判定や能力・興味関心、到達度の状況判断など教育評価法にも工夫が必要です。でも、教師の免許法はそのまま、更新性も棚上げ状態。研修の機会や勤務評定と能力評定制度も確立していない。これでは煩雑なメニューだけ作って、その説明もできないウエーターを雇用して、結果的に消費者にまともなサービスも提供できず、いろいろメニューには書いてあるけど「これだけ」食べてという詐欺的レストランのようなものです。これが企業ならすぐに倒産です。塾だって、結果的に顧客満足度を高められなければ倒産ですよ。教育の目的やカリキュラムは、教育基本法の第1条にあるように「人格の完成」目指すべきで、人格の完成とは下記のような内容と文部省は訓示しています。 (参考) 「人格の完成」: 個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること(「教育基本法制定の要旨」昭和22年文部省訓令)。 本質的議論として、個人の価値と尊厳を尊び、あらゆる能力を出来る限り、調和的に発展せしめるために「およそ3」がいいのか悪いのかということです。このIT社会で確かに無用な数字の羅列を覚えることは必要ありません。しかし、私は数字を覚えることが本来的な目的ではなく、こうしたことで数学的な教養や知識を身につけると思うのです。ですから多くの数学者たちの見解として「およそ3」で教え、子供たちの能力を習熟度別に応じた指導し高めていくのであれば、教員養成や研修制度、学校の経営方針や学級人数の削減、サービス内容の変更などあらゆるもの手をつけなければ意味がないと思うのです。 教育の内容の厳選が生きる力になり、学校週休二日制が本当にゆとりを子供たちに与え、子供たちが自らの可能性を伸ばすことにつながり、真の人間教育のきっかけになるなら大歓迎です。しかし、ゆとり教育の結果、国際的には学力が低下し、塾通いがむしろ増え、学校を嫌う子供たちが増えているのではないですか?週休二日制が本当にゆとり教育上必要だったのですか?とお聞きしたいのです。企業ならこうした検証は株主に対して公開企業なら1年に1回、一般的には四半期に一度はレポートとしてまとめ、だめなら方向を修正していきます。そうしなければ競争に負け、衰退又は消滅していくからです。 もしこうした長く政治的に翻弄されてきた文部官僚が、自らのあやまちによる教育的歪みを、偏差値のせいにして、これをパージすることで本質的問題をすり替えることがあるなら、国は誤った方向に進むし、社会の健全な形成に影響を及ぼすことになるでしょう。様々な現状を見ると文部科学省が示している学習指導要領の説明が明らかに矛盾しているということは前に示しているとおりです。その結果、子供たちを取り巻く公教育の環境は悪化の一途です。 ある偉人によると、独裁者が最も望むことは国民の無知だそうです。独裁者は自らの独裁的政権の維持のために国民を無知にさせ、自らの政策的過ちを見抜けぬようにする。これが最も重要な独裁的国家の形成法です。日本の教育力が世界的に見て低下傾向にあること。将来像のあるべき姿が示せない状態で子供たちが無気力になっていっていること。NEETなどの未就業者の増大。子供を中心とした犯罪の増加・短絡的行動、自殺者の増加、引きこもりや家庭内暴力の増加。これらが必ずしも無関係ではないことを我々は知らなければなりません。国民の無知は必ず歴史的に見て独裁者の存在を呼び込みます。文部科学省は一流官庁として自らの職責を全うして欲しいものです。 #
by syukatsu-ouen
| 2004-12-18 13:30
| 人事部の本音
1950年代になると教育現場はまさに政治的対立の縮図となり、子供たちは無用の対立に望む事無く巻き込まれていきます。教育の中立性や平等性、独立性という言葉を聞いたことがあるでしょうか?本来教育とは人間としての人格形成や社会を形成する思想性を構築するために重要な部分を担うために、あらゆる政治的意図や宗教的史観を公教育現場には用いないという考え方です。また、あらゆる不当な干渉を排除しどのような圧力も受けないという考え方です。教育権の独立をきちんと憲法に明記している国もあります。日本は戦後神道的教育手法・国家主義的教育観の排除をすすめるために中立性・独立性が声高に叫ばれたのです。教育刷新委員会の教育基本法素案では、教育行政の項目に「教育の自主性」という言葉が盛り込まれていましたが、「不当な支配に服することなく」というものに変わりました。その主旨を国会の答弁からひっぱっています。
(参考) 【「不当な支配」とはどういうものを指すのか。】 ◎昭和22.3.14 衆・教育基本法案委員会 <辻田政府委員> 第十条の「不当な支配に服することなく」というのは、これは教育が国民の公正な意思に応じて行はれなければならぬことは当然でありますが、従来官僚とか一部の政党とか、その他の不当な外部的な干渉と申しますか、容啄と申しますかによつて教育の内容が随分ゆがめられたことのあることは、申し上げるまでもないことであります。そこでそういうふうな単なる官僚とかあるいは一部の政党とかいうふうなことのみでなく、一般に不当な支配に教育が服してはならないのでありましてここでは教育権の独立と申しますか、教権の独立ということについて、その精神を表したのであります。 すなわち、特定の圧力団体や政党、官僚によって教育の内容がゆがめられ内容にと苦言をしているのです。しかし、1950年代の日教組との対立のなかでこの考え方は大きく変わっていきます。文部省はGHQの社会主義的思想をもった人間の公職追放の流れを受け、革新系思想の根強かった日教組と対立姿勢を明確にしていきます。事実、民主教育の名の下に学校現場では公然と偏向教育が行われていたようです。こうしたことを文部省は偏向教育排除の題目にし、日教組は自らの正当性を主張するために不当な文部省の干渉と教育の中立性や独立性を盾にしていくのです。 高度経済成長期には文部行政は経済界の要請により学習内容を修正していきます。参考までに文部省がまとめた戦後教育の変遷のHPです。 http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/data/d002.pdf 日本が高度経済成長の波にのり諸外国に打ち勝ち、産業を戦前以上の状態にもっていくには技術者の要請が必要だった。高専のシステムはこうした経済界の思惑から出来たものですし、学校の理科教育に使う教材の多くは経済界と文部省が二人三脚で作った振興会などからの寄付でまかなっていました。また強い労働者を作り上げるためには質実剛健な人材を養成する必要がある。そのために体育教育や運動部への経済的支援を経済界と文部省が二人三脚で行なっています。 別にいいじゃないかと思う人がいるかもしれませんが、教育の中立性ということばを理解していればこの危険性が理解できるはずなのです。理科教育振興会という財団を経済界が作ったとします。学校に納品される実験機器のビーカーなどはすべてそこが用意する。また官僚たちは退官後にそうした外郭団体に天下る。すると振興会と文部省の関係はさらに密接なものになる。じゃあ経済界がなんの見返りもなくそれをやるのか?当然従順な労働者を養成することを学校に望む。早期の労働力を確保するのであれば中卒労働者を推進してもらう。技術力の向上のために大卒以上の高度な技術者を養成するのであれば大学教育を強化、ないしは受験制度をそのような目的に変更すればよい。労働界にとって高度経済成長期には重要なカリキュラムは理数系であるから、指導要領作成にも理数系重視と影響を及ぼし、しいては本来の教育の目的の一つである人格の形成や平和教育の時間が限りなく減らされていっても誰も文句が言えなくなるわけです。 これは教育の中立性ということばを考えたときにいかがなものかということになるのです。もちろん国における公教育の目的には国策の推進があるでしょう。でも、こうした間違いが戦前にあったわけですよね。ベトナムやカンボジアでも狂った政治家はかならず教育を政治の道具にした。ドイツのヒットラーもイタリアのムッソリーニもそうです。北朝鮮も典型的です。中国も江沢民が推し進めた国策としての仮想敵国作りの結果として反日教育を重視し、若い年代に反日熱が増している。こうなっていくのです。 #
by syukatsu-ouen
| 2004-12-18 13:29
| 人事部の本音
ゆとり教育についての意見やトラバをたくさんいただいていますので、ちょっとだけ追加の書き込みです。文部行政は戦後常に政治的な影響力を受け続けてきました。細かく書くとブログの主旨からずれるのでやめておきますが、少し歴史的観点から日本の戦後の文部行政の流れを追ってみたいと思います。
日本の教育は戦後、GHQを中心に大きく戦前の教育法を転換しました。戦前は教育勅語というのがあって、天皇を中心とした国家主義観が色濃く出た内容で、臣民としての日本国民のあり方や家族観、人格形成にあたる方向性などが儒教的史観によって書かれていました。これを大きく変革したのです。 (参考) 教育基本法制定の経緯 ○ 昭和20年9月15日、文部省は、戦後の新しい教育の根本方針として「新日本建設ノ教育方針」を発表。 ○ 昭和20年10月22日、連合国軍最高司令官総司令部(以下「総司令部」)は「日本教育制度ニ対スル管理政策」を指令、教育内容、教育関係者、教科目・教材等の在り方について指示。 ○ 昭和21年3月5日及び7日、総司令部が日本に民主的な教育制度を確立するための具体的方策を求めるために米本国に派遣を要請した米国教育使節団(第一次)が来日。日本教育家の委員会(総司令部の求めにより設置)と協力して、同年3月30日に報告書をとりまとめ、4月7日に公表。 同報告書は、日本の教育の目的や内容をはじめ、実施すべき多くの事項を提案しており、教育組織の根本的変更を必要とする内容のもの。教育勅語については、儀式等におけるその取扱が問題とされたが、教育基本法のごとき法律を定めようとするような内容は含まれていなかった。 ○ 昭和21年6月27日及び7月3日、第90回帝国議会において帝国憲法改正案が審議された際、田中耕太郎文部大臣は、教育根本法ともいうべきものを早急に立案して議会の協賛を得たい旨を答弁。 ○ 昭和21年8月10日、教育に関する重要事項を調査審議するために、内閣総理大臣の所轄下に教育刷新委員会を設置。 同委員会では、総会の他に、教育の基本理念に関する事項を検討するため第一特別委員会を設置し、2ヶ月余の間に12回(昭和21年9月23日~11月29日)にわたり検討を重ね、11月29日、教育基本法制定の必要性と、その内容となるべき基本的な教育理念等について、総会において決議、12月27日に内閣総理大臣あて報告。 ○ 昭和22年3月4日、教育基本法案を閣議決定。 ○ 昭和22年3月5日、政府は教育基本法案を上奏、翌6日に枢密院に御諮詢、若干の字句訂正を行い、3月12日、枢密院会議において可決。 ○ 昭和22年3月12日、政府は、教育基本法案を第92回帝国議会に提出、原案どおり可決・成立し、3月31日、公布・施行 。 ・ 3月13日 衆議院上程 ・ 3月17日 政府原案どおり衆議院において可決 ・ 3月19日 貴族院上程 ・ 3月26日 政府原案どおり貴族院において可決・成立 ※ 日本国憲法は、昭和21年11月3日公布、翌22年5月3日施行。 例えば、終戦後すぐはGHQの占領政策から、社会科教育は見送られました。また、キリスト教的教育史観が日本に導入され、日本人が本来持ち合わせていた儒教的思想は徹底的に排除されていくのです。例えば、教育刷新委員会の中でまとめられた教育基本法の素案では「宗教的情操」や「徳育」という言葉が盛り込まれる方針でした。これは特定宗派に立脚したものでなく、心の問題や家族観、親を思う気持ちや生命観などの倫理的教育と呼ぶ考え方でした。しかし、当時の政治的状況ではこうしたことを安易に認めることは難しく変更をさせられています。 (参考) 教育基本法案要綱案(昭和二一年一一月二九日) (教育刷新委員会第一特別委員会で作成され、参考案として総会に提示された案文) 教育基本法案要綱案(参考案) 教育は、真理の開明と人格の完成とを期して行われなければならない。従来、わが国の教育は、やゝもすればこの自覚と反省とにかけるところがあり、とくに真の科学的精神と宗教的情操とが軽んぜられ、徳育が形式に流れ、教育は自主性を失い、ついに軍国主義的、又は極端な国家主義的傾向をとるに至つた。この過りを是正するためには教育を根本的に刷新しなければならない。 さきにわれらは、憲法を根本的に改正し、民主的文化国家を建設して、世界平和に寄与する基礎を築いた。この大業の成就は一に教育の力にまつべきものであつて、人間性を尊重し、真理と正義と平和とを希求する人間の育成を期すると共に、普遍的にしてしかも個性ゆたかな伝統を尊重して、しかも創造的な、文化をめざす教育が普及徹底されなければならない。 われらは、こゝに、教育の目的を明示して、新日本教育の基本を確立するとともに、新憲法の精神に則り、それと関連する諸条項を定めるために、教育基本法を制定する。 われら国民はすべて、この自覚の下に、教育の目的の実現に向つて不断の努力をいたさんことを期するものである。 一 教育の目的 教育は、人間性の開発をめざし、民主的平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義とを愛し、個人の尊厳をたつとび、勤労と協和とを重んずる、心身共に健康な国民の育成を期するにあること。 二 教育の方針 教育の目的は、あらゆる機会とあらゆる場とを通じて実現されなければならない。この目的を達成するためには、教育の自律性と学問の自由とを尊重し、現実との関連を考慮しつつ、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力とによつて、文化の創造と発展とに貢献するように努めなければならないこと。 三 教育の機会均等 すべて国民は、人種、信条、性別、社会的身分又は門地の如何に拘わらず、法律の定めるところにより、その能力と適性とに応じて、均等に教育を受ける機会が与えられなければならないこと。 国及び公共団体は、能力あるに拘らず、経済的理由によつて修学困難な者に対し、法律の定めるところにより、育英の方法を講じなければならないこと。 四 女子教育 男女は、お互に敬重し、協力し合わなければならないもので教育上原則として平等に取り扱わるべきものであること。 五 義務教育 国民は、法律の定めるところにより、その保護監督する子女に、満六歳より満十五歳まで九ヵ年の普通教育を受けさせる義務を負うこと。 国又は公共団体が設置する学校における義務教育については、授業料はこれを徴収しないこと。 六 政治教育 政治的教養の啓発は、教育上これを尊重しなければならない。但し法律に定める学校は、特定の党派的政治教育及び活動をしてはならないこと。 七 宗教教育 宗教的情操のかん養は、教育上これを重視しなければならない。但し官公立の学校は、特定の宗派的教育及び活動をしてはならないこと。 八 学校の公共性と自主性 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は公共団体の外、法律の定める法人のみがこれを設置することができるものとすること。 学校は、教育の使命を達成し、学園の秩序を保持するために必要な規則を定めることができるものとすること。 九 教員の身分 法律に定める学校の教師は、公務員としての性格をもつものであつて、自己の使命を自覚して、その職責の遂行に努めなければならない。これがため、法律の定めるところにより、その身分が保障せられ、待遇の適正が期せられなければならない。 十 教育行政 教育行政は、学問の自由と教育の自主性とを尊重し、教育の目的遂行に必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならないこと。 十一 社会教育 国及び公共団体は、教育の目的を達成するため、家庭及び学校における教育活動の外あらゆる手段方法による教育の実施に努力しなければならないこと。 工場、事業場その他勤労の場においてなされる教育の施設は、国及び公共団体によつて奨励さるべきであること。 新聞、出版、放送、映画、演劇、音楽その他の文化施設は教育的考慮の下になされることが望まれること。 -------------------------------------------------------------------------------- 教育基本法案(昭和二二年三月一二日) (政府の帝国議会への提出原案。なお、原案通り可決成立) 教育基本法案 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。 第 一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。 第 二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に則し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。 第 三条(教育の機会均等) すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。 第 五条(男女共学) 男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。 第 四条(義務教育) 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。 第 八条(政治教育) 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。 第 九条(宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。 第 六条(学校教育) 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。 第 十条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。 第 七条(社会教育) 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によつて教育の目的の実現に努めなければならない。 第 十一条(補則) この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。 附 則 この法律は、公布の日から、これを施行する。 #
by syukatsu-ouen
| 2004-12-18 13:27
| 人事部の本音
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